XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

食卓花

庭で摘み取った花を楽しむ

 食卓花を楽しんでいる。そう大層なことではない。庭に咲いている花を摘んできて、適当な器に浮かせているだけだ。花瓶に生けるのではなく、花だけを浮かせている。そのときの気分や思いつきて、適当な器に水を張り花を浮かべる。花だけでなく葉っぱを浮かべるのもいい。食卓の雰囲気が変わって食事が華やかなものになる。
  生け花やアレンジメントではないので、花形や構成など難しいことは気にしない。水に浮かんだ色と形を楽しむ。そのときに一番輝いていた花を摘むようにしている。緑も時期によって輝き方が異なるので旬なものを添えるようにする。簡単なセッティングだが2~3日は楽しめる。器は食器を使ったり、捨ててしまうような包装容器を使ったり、おもしろいと思えるものは何でもいい。全く自由な造形なのだ。
 
 これを思いついたのは、ある寺院で手水鉢に花を浮かべて参拝者をもてなしているというニュースを見たのがきっかけだった。その後、植物園を見学したとき、ダリア園で、摘み取ったダリアの花だけを水鉢に浮かべて展示しているところにも出会った。花を生けるということに囚われて、枝の先に咲いた花という固定概念を持っていたのだが、もっと自由であっていいのではないかと気づいた。考えてみれば結婚式や海外のお祭りなどではフラワーシャワーのように花びらをバラバラにして撒かれているではないか。路面に花を並べて絵を描くイベントがあるではないか。

 しかし、ふと立ち止まってなぜ自分が生け花のような植物との関わりに囚われていたのかを考えた。花をものとして見ていなかったのではないか。自然の一部として見ていたし、同じ時間を生きているものと感じていたのではないか。だから生えているそのままの形で造形する生け花を受け入れてきたのだろう。色の付いた物体ではなく、一つ一つ個性を持った生き物としてそれぞれの花が互いを活かし合うように組み合わせ生活の中に飾ってきたのだ。そこには自然へのリスペクトがあったのだと思う。

 食卓花はどうなのだろう。花だけを摘んでしまうのは残酷なのだろうか。あるがままの形、姿ではなくその一部だけを飾る行為はその存在を否定してしまうのだろうか。花の形や色に魅力を感じ、葉の緑を綺麗だと思って摘んできた。身近なところに置いておきたい、視野の中で楽しみたい。その花や葉っぱへの思い入れがあるように思う。人間のわがままで切り取られてしまう植物からすれば迷惑なことではあるが、生き物同士の一つの関わり方と言えるのではないか。命を食べなくては生きていけないのが生き物なのだ。心の栄養として花や葉っぱの命をいただいている。一輪の花が一枚の葉が心を豊かにしてくれる。生きていることへの感謝である。