XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

おもちゃの修理

shig552009-07-10

沖縄、奄美地方は梅雨明けしたそうだが、関東は梅雨明けにはまだのようだ。大気が不安定で、強い風の吹く日が多い。また、天候の変わり方が急激で突然大粒の雨になることもある。紫陽花の葉にしとしと降る雨とは様態を異にする天候である。

 私のホームページに「おもちゃの修理承ります」というページを設けている。壊れたものを直す楽しみから始めたものである。そこそこに依頼をいただき、試行錯誤しながら直してきた。子どもたちにとっては大事なおもちゃである。また動くようになって手元にもどしてあげると、とても喜んでくれる。「壊れたら捨てる・買い換える」ではなく「直して使う」ということを子どもたちに伝えていきたい思いがある。
 修理依頼の多くが、接触不良や断線など単純なものが多いが、中には経年変化でプラスチック部品が劣化して、新しく作り直さなければならないものもあった。また、代替部品が手に入らず、類似の部品を加工して直すこともある。メーカーでの修理のように純正部品に取り替えたり、基板ごと交換したりする修理はできないので、動作を回復させるよういろいろと工夫しなければならない。そこが楽しみでもある。

 このところ、修理の依頼が2件続いた。「ホームページを見た。修理をお願いしたい」というメールが届き、返事を出した。しかし、その後の返答がないのだ。依頼を取りやめたでもなく、依頼品を送ってくるでもない。まったくの音信なしである。声をかけられて、返事をしたら無視された感じである。
思い当たるのは、私からの返答メールの内容である。「必ず直るとお約束するものではありません。最悪、そのままお返しすることもあるかも知れません。修理費用はいただきませんが、往復の送料はご負担ください」という内容である。この返答メールをもらった方にとっては不安になるのかも知れない。「修理を受けたのならきちんと直すのが当然」と考えるのが普通なのだろう。それなのに「直せないかも知れない」と言われては不安になったのだろう。その結果、「変なところにメールしてしまった」と無視することにしたのかも知れない。
 私は、「直せるのなら直したい」というレベルを考えている。費用に糸目をつけないのならほとんどのものは直すことができるだろう。必要な部品を初めから作り直せばいい。まったく新しく作ることを考えれば修理は可能である。メーカーでの修理はその考え方である。費用はかかるが必ず直すことを保証する対応である。どのような故障であっても、新品と取り替えて、一部分でも元の部品を使っておけば修理したことになる。当然、費用は新品を購入するよりも高額になるはずだ。新品を作るよりも手間がかかるからである。
私の「直せるものなら直したい」というのは、この修理とは異なるスタンスである。「壊れてしまったので捨てるしかないと思うが、それほど費用をかけずに直せるなら直して使いたい。」と言うことがあるはずだ。もし直ればゴミになることもなくその寿命を延ばすことができる。慣れ親しんできたおもちゃなら愛着も強いはずである。おもちゃだからこそ、直したいという気持ちがあるだろう。でも、おもちゃだからこそ成長と共に忘れられていく存在であり、あまり費用をかけることもできない。

 もの作りの延長線上で始めた「おもちゃの修理」だから見返りを求めてはいない。修理の過程を楽しませてもらうことが報酬である。直ったことを喜んでもらえることがご褒美である。
 ネット上での人と人のお付き合いは難しい。相手がどのような人なのかまったくわからないからだ。甘い話には裏があると考えてしまうのも当然だろう。
 時間ができたら対面修理も考えたいと思うが、仕事に追われ、余暇を使っての対応では当分ネット上での活動にならざるを得ない。それにしても、声をかけられて、そのまま無視されるのは寂しいものである。