XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

視野の多様性

shig552006-12-04

早いもので師走。12月の声を聞いた途端に寒さが増してきた。今朝はコートを着て出かけた。公園の銀杏の葉もほぼ散り、路面は人々に踏まれ粉のようになった銀杏の葉が覆っている。ナンキンハゼの葉も黄色から赤、青紫といろいろなグラデーションで散り始めている。
夕方、天頂付近の月は、白く輝き、寒さを増しているようだ。

最近、マスコミの騒ぎようにいらだちを感じる。いじめ、自殺、談合、収賄、未履修・・・センセイショナルに取り上げ不安を煽っている。社会正義のために不正や課題を取り上げ報道することは必要などだと思う。しかし、報道する立場は「我は正義なり」ではないはずだ。正義か否かは読者が決めることであり、さまざまな角度から事実を報道し、その思考を助けるのがマスコミの役割ではないか。
映像・視覚からの情報量は文字や音声・音響による情報よりも桁違いに大きい。映像で見ることにより全体を見たように錯覚してしまうことがある。それは画面の中から自分の欲する情報を選択し得ているからである。さまざまな情報の中から自分の判断で一つのことを抽出し情報として活用するからである。文字などのように他人が抽出したものではない、自分で選択したという要素が強いのである。
しかし、マスコミで流される映像は現実に起きている現象を意図的に切り取ったものである。そこにはフレームによって切り取るという撮影者の意図があり、現実の全体像ではない。意図を持った一つの視点からの映像である。
一方、文字による情報の場合、はじめから執筆者の思考のフィルターを経た情報ではあるが、そのことを読者はわきまえて受けている。従って、執筆者がどのようなスタンスでその事態を見ているかを考えながら情報としている。すなわち一つの視点からの報道であっても、読者はその視点からではない別の視点から事象を考えることが容易いのである。

映像文化が主流になっている現在、受け入れやすいこの情報が思考に与える影響について慎重になる必要があるのではないか。次から次へと提起されてくる事件に、不安だけが増している。どのように解決していくかも自ら考えるのではなく、どこからか示されるのを待っている。
多様な視点をもてないことには、事象の全体像を把握し対応することは難しい。視点を限定されている状況では、誘導されるままに動くしかない。
私たちがさまざまな経験をし、体験しているのは異なる視点があり、一つの視点からは見えないこともあると言うことを知ることではないか。一つの見方で不安になったり攻撃したりするのではなく、別の見方、考え方があるのではないかと逡巡する余裕を持つためではないか。