XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

記録と記憶

ユズリハ

 原発事故の収束に向けて様々な努力が重ねられている。作業員の中には緊急時の被曝基準以上の放射線を浴びた人も出ているという。なぜこれほどの深刻な事態に至ってしまったのか検証も進められているが、まずは安定冷却・停止へ向けての作業を急がなくてはならないのだと思う。作業をされている方々の安全と健康を祈らずにいられない。
 
 春の運動会シーズンである。会場にはビデオカメラを抱えた父親の姿が目立つ。我が子の活躍する姿を記録に残そうとの意気込みのようだ。競技が始まるとディスプレー越しに我が子の姿を追っている。撮り逃したら家族からなんと言われるかしれないというプレッシャーを感じているのだろうか。
 記録された映像は家族で鑑賞し、団らんが盛り上がることであろう。また、離れて住む祖父母などと一緒に見ることで子どもの成長の喜びを共有することだろう。動く映像として見ることでたくさんの情報が得られる。一つ一つ説明しなくてもその日の天気や会場の様子、観客の数や子どもの雰囲気、健康状態までも見て取ることができる。擬似的にその運動会に参加したと近い体験ができる。
 機器の開発は、疑似体験がよりリアルになるよう解像度を増し、色彩を美しくし、音質を改良し、画面を大きくし、臨場感を増すことに努めてきた。より多くの情報を記録することを目指してきた。

 記録は大切である。記録の積み重ねによって改善・進歩・発展が行われる。しかし、人の生き方の中で記録よりも記憶の方が勝っている面もあるのではないだろうか。
 記憶は曖昧さを持っている。末梢部分は消去され、自分にとって好ましい、または強く惹かれる部分が強化されていく。さらに時間の経過とともに記憶の層に埋もれていく。記録とは異なり、主観的なものでありその人の「生」とともに変化していくものである。
 人を人たらしめているものの一つはこの記憶であると思う。伝記で書かれるような外側からの記録よりも、自分自身の中に蓄積してきた記憶が「我」を形成しているのだと思うのだ。様々な経験や出会いを記憶し構成し直しながら「我」ができてきたのだ。

 被災地で「思い出捜し隊」という活動が行われているという。津波で流されてしまったさまざまなものの中から思い出の品を捜しだし、持ち主に返そうという活動である。
 その思い出の品は他の人にとっては何でもないものでも、その人にとっては記憶を呼び覚ます大事なかけがえのないものである。それにより呼び戻された記憶の中で自分の足跡をたどり、自分自身を確認することができるからである。

 記録機器が進歩し、臨場感たっぷりの記録ができるようになったとき、思い出を呼び覚ますものになるのだろうか。記憶は変質しているのに記録はリアルに近いものが示されるのだ。見ることによって自分の記憶を訂正することを求められてしまうのではないだろうか。
 歳を重ねていく中で、自分自身を作り上げていくのだが、思い出として培ってきたものを訂正しなければならないことが幸せなのだろうか。思い出は思い出としてそれぞれの言葉で伝えあうことの方が幸せなように思うのだ。