XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

当たり前

麦ナデシコ

 映画「岳・ガク」を見た。石塚真一ビックコミック連載の漫画を実写化したものだという。漫画は目にしたことはあるが、単行本化され18巻あるという全部を読んではいない。山を愛する青年島崎三歩を主人公にした山岳救助の物語である。
 映画では連載の途中段階で製作されたということもあり、海外でのことは取り上げられず、長野県の穂高岳槍ヶ岳周辺を舞台にしている。山岳救助隊の隊長であった父を持つ椎名久美の成長を軸に、過酷な状況の中で「生きる」をテーマとして描かれている。
 この中の部分的なエピソードではあるが心に引っかかったことがある。山で動けなくなったとの救助要請があり、救助隊が臨場する。通報者のところに到着すると「遅かったじゃないか。なんでヘリコプターじゃないんだ」と言われる。救助隊の新米隊員椎名は「救助隊はタクシーではない」と激しく怒るが、その要救助者が唖然とした表情をしているという場面である。
 救助要請をして助けてもらうのは当たり前なのか?ということにひっかかったのだ。
 私たちはよりよい暮らしを求めてさまざまな仕組みを作ってきた。病院・道路・電気・水道・情報・・・などインフラというものである。都市部が中心ではあるが人口密度の低い地域にもそれを広げてきた。一方、警察や消防などの行政機構は人々の生命財産を守るものとしてすべて地域に網をかけている。救助隊は警察や消防、民間ボランティアなどで組織されている。救助要請に対して最大限の力を尽くすことが役割として課せられているのも事実である。しかし、それはサービスではない。最後の砦として準備されたものであり日常生活の枠の外に位置づけられたものであるはずだ。
 日常生活では事故などを防止するため一人一人が注意をしている。災害への備えをし、さまざまな対応をしていても”想定外”のことが起きてしまうのが現実である。日常ではない非常時に対応するものとして警察や消防があるのだと考える。
 「山で捻挫をして歩けなくなった。救助要請をして助けてもらうのは当たり前。」でいいのだろうか。「税金を払って行政機構を養っている。その行政機構である救助隊のサービスを受けるのは当然の権利である。」そう考えるのは「給食費を払っているのだから、食べる前に子供に”いただきます”を強要するのはやめてほしい」と要求したという保護者と同じ感覚のように感じるのだ。
 より大きな視点から自分の置かれた状況を見られるようにしたいものである。「転ばないように注意して歩いていたのだが、つまずいて捻挫をしてしまった。歩くことができなくなってしまったので、申し訳ないが助けてほしい。皆さんに迷惑をかけてしまい申し訳ない」「さまざまな人々の手を経て給食を食べることができる。食材はさまざまな生き物である。その命をいただいて今日の一日を過ごせることに感謝して”いただきます”」と言うことなのではないだろうか。
主人公の三歩が山での遭難者に「よく頑張った」と労う場面があった。山の怖さ・大きさを知っているからこそ掛けられる言葉だと思う。
 雪山はともかく、また山に行きたくなってきた。