XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

ものと人生との関わり

shig552008-06-30

梅雨明けが間近だというのに、気温も上がらず、すっきりしない天気。上着を着て一日過ごせてしまうが、さすがに今日はネクタイをとった。街でもクールビズの服装の人を多く見かける。ネクタイをとっただけでなんと涼しいことか。しかし、ネクタイがないと何となくしまりがない感じで落ち着かない。カジュアルとビジネスの間の何とも不安定なファッションである。

カナダのビクトリアという街をを紹介するテレビ番組があった。街中が植物園のような、緑と花のあふれるとろこだ。街灯にはハンギングバスケットの花が揺れ、家々の窓には鉢植えの花が咲いている。道路に面した家の裏手には中庭が作られ、憩いの場になっている。
この街には骨董店が多いのだという。それは人々が古い建物を大事に使っていることと、歳を召した方が多いからだそうだ。古い建物には現代風の調度は似合わない。老人は持ち物を少なくしてシンプルな生活を目指す。というのがその理由だそうだ。
日本では古い家といっても木造家屋ではなかなか時代をさかのぼるものは少ない。せいぜい明治時代であろう。湿気の多い気候では木造家屋を維持するのは大変である。だから、古い家に合う調度を探すより、新しい家に合うような家具が多くなってしまう。骨董というと古い家と合わせようとするよりも、新しい家にアクセントになるように古い家具などを使うことが多いようだ。海外の骨董と日本の骨董の扱い方の違いだろうか。

老人が多くて、骨董として出されるものが多いということに、妙に合点してしまった。これまで欲しいものは手当たり次第に購入し集めてきた。しかし、自らのこれからを考えるとこれら集めたものがそれなりに活用されるのか不安になってしまう。自分自身にとっては価値のある大事なものだが、家族の誰に引き継がれても使うことはないだろう。その価値をわかって使ってくれればよいのだが、ガラクタとして扱われるのは目に見えている。細々とたくさんのものを集めてしまったが、自分で使い切ることは出来なさそうだ。自分が旅立った後、残ったものがどういうことになるのか考えてしまうのだ。物への執着ではなく、物の整理のされ方である。その価値のわかる人に譲れたら心安らかになるのだが。
「整理屋」という仕事があるそうだ。部屋一つ、家一軒、その内容を問わずすべて整理してくれる。きれいさっぱり処分するそうだ。すべて使用品であるから廃棄されるのだろうが、中には骨董として扱われたり、リサイクルされる物もあるだとう。第三者が処理をすることで情に囚われず、物自体の価値で処理される。マネーロンダリングではないが、人との関わりを浄化するうまい方法である。

東京の最終ゴミ処理施設である中央防波堤を見学したことがある。ここにはリサイクルされなかったさまざまな物が持ち込まれる。粉砕され、焼却され、スラグとして処理されている。人の生活の中でいろいろと関わってきた物もすべて一緒くたにされ、砂のような固まりになってしまう。これも浄化だと感じた。

物と人生との関わりは、歳をとるということ、人生のこれからを考える年齢になること、その年齢になって初めて思い至ることのようだ。旅立ちに向けて少しずつ身の回りの整理をしていくことが老境にはいるということなのだろうか。