XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

生活の技(わざ)

shig552008-07-03

 先日、湾岸エリアに行った。海に接した公園である。広い草原(くさはら)があり、青々とした木々が茂っている。結構陽射しは強かったが、暑さを感じなかった。風が爽やかなのだ。常に一定の、微かに揺らぎを伴った風が吹いている。海からの風なので湿り気を含んでいるはずだが、不快ではない。何も考えずに景色を見ているだけで気持ちがよい。普通なら日陰に逃げ込むところだが、気持ちの良さにしばらく陽射しの中、風に当たっていた。

 「もったいない」と言う日本語が世界で通じる言葉になってきているそうだ。使い捨ての生活への警鐘である。最近のコマーシャルで、「まだ使えるけれど乗り換えます」という車のCMがある。省エネルギーを前面に出し、燃費のよい車に乗り換えることを勧めている。その車を作るために使われたエネルギーや資源と、燃費の良さで生み出される省エネルギーの詳細な比較をしなければ結論は出ないが、なにか、目先のことに囚われて大事なことを見失っているように思う。
 せっかく作ったものは、その寿命が来るまで使い切ることが、省エネルギー、省資源になるのではないだろうか。3Rなどと言うよりも、使い切るという発想が大事だと思う。
 使い切るためには技(わざ)が必要である。物は消耗し、経年変化を起こし、故障し、トラブルを起こすものである。日々メンテナンスをし、無理をさせず、修理をすることで寿命を延ばし長く使うことが出来る。そのものの特性や癖を知り、手入れをし、修理をする技である。
 しかし、PL法など、物に対する考え方が変わってしまった。物は壊れないもの、危険のないもの、いじれないものとなってしまった。ブラックボックスである。取り扱い説明書通りに使うことを求められ、それ以外の使い方は許されない。使用者はメーカーに対して「完全」を求め、どのような使い方をしても危険がないように配慮されていることを求める。その結果、機能だけでなくさまざまな付加装置が取り付けられ、仰々しいまでになっている。
 もともと、生活のための道具は自分自身で作るものだった。自分で作ったものであるから、どのような使い方をすればよいか、何が危険かがわかり、機能だけを求めた道具になっていた。より使いやすいように改良し、壊れたら自分で修理した。つい最近まで、電気製品でもドライバー1本で修理していたものである。中学生のころ技術科でプラグの接続方法を教えられた。家庭科では靴下の穴の繕い方を習った。技を大事にしていたのだ。
 いま、品物の保証書には「手を加えたものについては保証の対象外とする」旨のことが記載されている。責任はメーカーがとるから、手を出すな。という考え方である。製造物責任という概念から自らを守るためには、責任の範囲を明確にしておかなければならない。使用者の責任などと言っていられないのだ。
 こうして技のない人がどんどん増えていく。使用者はものを使い捨てるだけである。不具合が起こっても自分で手を入れることが出来ない。技術的に出来ないというよりも、物に対する感覚が「開けてはならないもの・ブラックボックス」となっているのだ。

 大量生産・大量消費の時代を変えようとしている。ものを大事にすること、そのためには生活のための技(わざ)を身につけることが必要である。また、ものをブラックボックスとしてみない好奇心、挑戦心が必要である。ものは万能でないのは当たりまえ、壊れることは当然のこと、それをどのように手なずけるのかが生活のおもしろさである。技の伝承はもう遅すぎるのかも知れない。しかし、まだ、高齢の方の中にその技は残っている。早く伝承のための手を打たないと、技が途絶えてしまいそうである。