XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

自然保護活動

shig552010-01-30

 大寒を過ぎ、日の入りも少しずつ遅くなり、「春遠からじ」の景色になってきた。日中の陽射しの暖かさが心地よい。元旦に満月の沈む様子と、初日の出を同時に見て、早、月齢が一巡してしまった。今日はまた、満月である。冬の空は空気が澄んでいて、昼の青空や夜の星がとてもきれいに見える。すっきりとして気持ちまで晴れやかになる。

 先日は、日本の鯨調査船に対してシーシェパードという自然保護団体が過激な妨害行動をとり、その船と調査船が接触し大破するという事件が大きく報道された。オーストラリアでも政府の反応は冷静だったが、国民の反応は自然保護活動に好意的な意見が多かったようだ。
 自然保護という大義名分は誰しも願っていることであり、その方向に対しては異存がないことだと思う。しかし、具体的な事象に関しては意見の分かれるところである。
 要は、この限られた地球という資源を、そこに居住する人間がどのように、継続的に使っていくかという問題である。限りのある資源であるから、大量に消費してしまえば、枯渇するのは目の前に迫ってくる。将来にわたって長く使うためには消費を減らすことが必要である。水や空気、燃料などの資源は循環し再生されている。地球の持つ自然の循環で生み出される資源を活用しているうちは、枯渇の心配はなかった。しかし、文明の発達により大量生産・大量消費が進み、そのお陰で生活の豊かさと、人口の増加、活動範囲の広域化が進んだ。
 現在の自然保護の必要性は、この人口増加と生活様式の変化に起因している。たくさんの人が豊かな生活を欲していることが自然の循環を狂わせてしまっていると考えられる。
 ここに、自然保護活動の難しさがある。自然の循環を元に戻し、資源の再生を促し枯渇しない状態にするためには、地球上に生活する人口を減らし、生活をより質素にすることが求められるからである。ここまで文明の恩恵に浴し、豊かな生活になれている私たちが、急に生活の質を変えることができるだろうか。また、意図的に人口を減らしていくことができるだろうか。試算によると日本列島で生活できる人口は三千万人とのことである。今の四分の一に減らし、生活を江戸時代と同様にすることで、自然の循環が再生可能な状態になるという。

 生物の多様性を保存し、種の絶滅をなくそうという動きが始まっている。捕鯨反対の運動やツキノワグマの保護運動などさまざまな運動が行われているが、それらの運動の先には、自分たちの生活スタイルを変えていくことを求められる状況が待っているように思う。さまざまな野生動物、植物が絶滅の危機に直面し、レッドブックに記載されているのは。人類が文明の名のもとに、野原を開き、森を林にし、地球のあらゆる場所に進出したことに原因がある。「より豊かで便利な生活」を求め、私たちの生活に役に立つ、活用できることを求めて開発を行ってきたことが原因である。自然の循環の一部としての人間の営みから大きく踏み出し、人間独自の開発を進めてきたことが原因となっている。
 すると、自然保護という一つ一つの現象面ではなく、もっと大きなスパンで文明の方向を考えなくてはならないのだが、文明の変容よりももっと速いスピードで自然の循環が壊れている現実がある。豊かな生活に慣れきっている私たちの生活を変えていくことの難しさがあるのだ。 
 私たちの子々孫々まで、この地球を人々が住める状態にしておくためには、省エネ技術だけで乗り越えられるのか疑問である。
 一方で、これまでの百数十年という短い期間で自然環境まで変えてしまった文明の力は、そのゆがみを元に戻す力にもなりうると考えたらよいのだろうか。科学技術、社会科学の発達と、自然環境の変容の速さとの競走が始まっている。その結果が出てしまうのが近い将来でないよう、頑張っていくしかない。