XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

学びとマニュアル

shig552008-07-26

 西岡常一棟梁、そしてその跡を継ぐ小川三夫さん、現在ではさらにその次の人々に宮大工の技が引き継がれている。「木のいのち木のこころ 天・地・人」という本を以前読んだことがある。西岡常一棟梁は祖父西岡常吉の薫陶を受け宮大工の道を進むが、その学び方に学ぶことの本質があるように思う。
 全くの素人には道具の使い方や素材の見方など基本的なことは教えるにしても、あとは実際の仕事の場でその人自身の力で歩ませる。指示されて行うのではなく、自分で考えて進まなくてはならない。自分のもっているすべての力を振り絞って考え工夫する。大きな壁が立ちふさがり、それをどう乗り越えようかと迷うとき、初めて先人の姿から解決のヒントをもらうことができる。needがあって初めて学習が成立するというのは教育学の基本である。求めるものが明確あり、その周辺の状況をくまなく探査しているからこそ、与えられたヒントが活きてくる。そしてそれは自分の中にしっかりと根付いたものとなる。
 「技は盗め」と職人の世界では言われている。盗めとは「真似ろ」という意味ではないようだ。自分なりの試行錯誤を経てさらによりよいものを求めるとき、そのヒントになるものを盗めという意味だと思う。求めるものに対してさまざまな準備ができているからこそ、ヒントを手がかりに自分で新たな道を切り開くことができる。技の神髄を継承することができるのだ。

 一方でさまざまに活用されているマニュアルはどうか。販売店の接客にしても、工場での製造技術にしてもマニュアルは大流行である。全くの素人でも、この場合にはこう対処する、こう言われたらこう答える等々対応方法が示されたマニュアルは一定水準のことをこなすには大変便利である。マニュアルに書かれたとおりの動きをすれば、自分の置かれた立場としてのある程度の動きをすることができる。
 しかし、深まりは期待できないだろう。そこには自分の意志が重視されず、創意工夫の余地もない。マニュアルという閉ざされた世界での動きだからである。敢えて言うならばマニュアルはその人を動かすプログラムなのだ。そして、そこに求められる人はロボットと同じ位置づけなのだ。

 ロボットは学ぶことはない。(学習機能のついたものもあるが、学習するようにプログラムされたものであり、自分の意志によって学んでいるのではない)人が学ぶのは自らの叡智をさらに高めようとする意志的な、主体的な行動である。

 マニュアルを理解することをあたかも学んでいるかのごとく錯覚している風潮がある。教えられることを待ち、教えられるままに受け入れるのでは学びにならない、自分で考え試行錯誤を繰り返し、一つ一つ確かめながら迷うことこそ学びである。
 せっかくこの世に生を受け、能力を伸ばせる場を与えられた私たちである。それぞれが自分なりの学びに努め、一人一人の能力を互いのために活かしたいものである。