XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

記録づくりと思い出づくり

shig552007-10-06

 天気予報では夜になっても星が見えるとのことだったが、職場を出ようとしたら雨音が聞こえてきた。窓から眺めると激しい雨。それまで雨のことなどまったく念頭になかったので一瞬唖然とする。ネットで「東京アメッシュ」を見てみる。自分のいるあたりがオレンジから赤で表示されている。「非常に激しい雨」という表示だ。降雨が観測されているのは局所的で、時間経過で動きを見てみると、速い動きで通り過ぎているようだ。20分ほど様子を見て、小降りになったところで職場を出た。

 ビデオカメラのCMが盛んに流されている。記憶媒体がカードやHDDになり機器自体が小型軽量化している。季節は秋、運動会など野外イベントを意識してのCMのようだ。
 先日、小学校の運動会をのぞいてみた。大変な数のカメラである。一列に並んで我が子の姿を追っているようだ。たくさんの子どもたちの中で自分の子どもを捜すのに一生懸命。やっと見つかるとファインダーからその姿を追うことに夢中になっている。
 ところでこのビデオはどのように活用されているのだろう。親子で今日の運動会を振り返って見るのだろうか。運動会に来られなかった祖父母に見せるのだろうか。成長の記録として保存しておくのだろうか。いろいろな使われ方をするのだろうが、このデーターはどんどん貯まっていくことになる。大変な量の記録になるだろう。
 写真やビデオなどあるひとときの出来事を個人が記録する手段が普及した。記録を取ることに夢中になっている。でも、記録で思い出に代替えができるのだろうか。
 ひとときひとときを生き、そのときどきの思いが思い出である。映像だけでなくその場で感じたさまざまなことの記憶である。風のそよぎであり、陽射しであり、人々の喧噪であり、その場にいることで感じられるすべてが織り重なって記憶に残る。運動会で子どもが輝く笑顔で演技している姿を「あぁ、ここまで大きくなったんだなぁ」と感慨を持ちながら見ている記憶である。
 ファインダーの中で映像を作ることに夢中になっているとき、そのような感慨が生まれてくるのか。せっかくその場に居合わせているのにファインダーという狭い世界でしか見ることのできないもったいなさを感じるのだ。記憶は曖昧で、時とともに薄れてしまう。これは人の生命に限りがあるということに連動していることだ。記録としていつまでも残しておくことが大事なのか、思い出としてそのときそのときを大事にするのか、考えたいものである。

 しばらくして、幼稚園の運動会をのぞいた。子どもたちは何をしてもかわいい。親御さんたちも若い。運動会と言っても子どもたちだけでなく親子の運動会である。そして気が付いた。ビデオカメラの数が少ない。みんなが一緒に運動会を楽しんでいる。記録者ではなく参加者なのだ。運動会の一日を親子でめいっぱい楽しみ、家に帰って楽しかった思い出を話し合うのだろう。子どもにとっても親にとっても心豊かになるひとときである。

 私たちは手軽に記録が残せるという手段を手に入れたが、そのことが本当に必要なのか、そのことで大事なことが忘れられてしまっていないのか。撮影場所をめぐって保護者同士がいざこざを起こしている姿を見るたびに、人間の作り出した機械に動かされてしまっている人間の弱さを見る思いがする。