XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

自殺の報道

shig552006-11-01

もう11月になってしまった。しかし日中はワイシャツで腕まくりをするほど暖かい。霜月はこんなに暖か方だろうか。
オンシジュームの花が咲いた。茶色の花で、とても良い香りがする。チョコレートの香りである。どうしてこんな香りがするのか不思議に思うほど甘く、チョコレートそっくりな香りである。この香りで虫たちを誘引するのだろうが、人間も引きつけられてしまいそうである。

マスコミの報道が気の滅入るモノばかりだ。「いじめ」「高校の単位未履修」そして「自殺」。
未履修があった高校の校長が自殺し、その遺書が見つかったという。「命を副えてお詫びする」という内容だったようだ。「腹を切る」という言葉がある。もののふの責任の取り方だったようだが、今の時代、命を差し出すことで責任をとることは出来ないのではないか。
一見かっこいいように思う。しかし、この考えの裏には「死者には鞭を打たない」という暗黙の了解があるように思う。亡くなった人を悪く言うことは避けるべきであり、死者に対する尊敬を示している。取り返しの付かないことに対して取り返しの付かない事実で応える。そこまで思い詰めた気持ちへの尊敬である。
大陸の考え方では、過ちを犯した者は、墓すらも作ることが許されず、死してなお責められ続けるのだという。死しても許されないのだ。
死に対する考え方は文化的背景を多分に含んでいる。文化そのものかも知れない。生に対する死である。いかに生きるかと背中合わせである。精一杯やった。しかし力尽きた。その果ての死として日本の死は位置づけられている。だから尊いものとして扱われる。生きている世界と冥界とは別の存在として考えられている。冥界に行ってしまったのだから、この世でどんなことがあっても諦めるしかない。
大陸の死はこの世と連続したもののようだ。だから冥界に行っても許されることはない。逆に身近な存在なのかも知れない。

子どもたちの自殺が続いている。マスコミ報道による連鎖のように思える。悩みがあり、それを表現する一つの方法としての行為のように思える。意識の上で生と死が連続している。いつでも戻ってこられるような感覚なのだろうか。閉ざされた世界の中に入ってしまうと選択肢が乏しくなり、最悪の方法を選んでしまうのかも知れない。

不安を煽る報道ばかりである。社会正義をすすめることが必要なことはわかる。しかし、社会のかげの部分だけを大きく報道し、夢や希望を見いだせず、不安ばかり煽るのはいかがなものか。
「おかげさま」という気持ちがもっと社会に広がって欲しい。互いが関わり合い支えあている社会である。一面ばかりを強調し、指摘し、改善を要求するだけでなく「おたがいさま」「おかげさま」と共助の関係を大事にしつつ、改善に努めていくことが大事なのではない。

「命を副えて」という遺書の言葉が悲しすぎる。支え合うことが出来ず、追求だけが先行する現状。大きな不安や不可解を感じながらも流されていく今日である。