XRQ技研業務日誌

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「タ」は夜明けの空を飛んだ

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「タ」は何と読むのだろう?

「タ」は夜明けの空を飛んだ 岩井三四二  集英社文庫 2022.2.25第1刷

 書名の「タ」はなんと読めばいいのか迷った。漢字なのか、カタカナなのか。漢字ならば”ゆう”、”ゆうべ”だろうか、”セキ”、”ジャク”なのだろうか。読み方がわからなくては検索して図書館や書店で探すにも難しい。読み進めるうちに最終盤でわかるのだが。

 1894~95の実験でグリエルモ・マルコーニが無線を使って通信できることを示し、無線の有用性に注目が集まった。それ以前の1864年にジェームス・クラーク・マクスウェルによって電磁波の存在が理論的に示されていた。1888年ハインリヒ・ヘルツの実験で電磁波の存在が確認さた。そして、実際に有線ではなく無線によって遠隔地間で信号の伝達ができたことからその応用への期待が大いに高まった。この物語はそのような時代背景の中、日本海軍での無線電信の開発を題材にした歴史小説である。

 この小説を読むまでは木村俊吉、松代松之助、外波内蔵吉などの名前は知らなかった。1640年代にはモールス符号による通信が実用化され徐々に電信網が拡大し、大陸間にも海底電線が敷設され商業運用が行われていた。しかし、船舶においては一度港を離れてしまうと通信手段がなく、近距離であれば手旗や灯火による通信、また信号旗による情報伝達に頼るしかなかった。マルコーニの大西洋横断無線通信成功のニュースは有線によらずとも通信が出来ることを示し、海軍にとっては重要な意味を持っていたようである。
 木村俊吉は研究者として歩んでいたが海軍将校であった兄の伝から無線機の開発に携わることになる。科学雑誌に掲載された無線電信機の一枚の図面をもとに逓信省の松代技官の手助けを得ながら試行錯誤の中で戦艦に搭載する無線機を開発する。当時の電波は今でいう減衰波で、火花放電によって生ずる帯域幅の大変広いものだった。インダクションコイルによって高電圧に昇圧された電気を放電球同士の間で放電させることで生成していた。受信は金属粉をガラス管の中に閉じ込めたコヒーラ管を用い、リレーを介して電波の断続を検知し紙テープに出力する仕組みだったという。またアンテナは高い櫓から垂らした線を用いていた。これらをたった1枚の図面から組み上げ改良していった様子は読んでいて引き込まれる物語だった。ものづくりの醍醐味が書かれている。
 海軍の船舶にこれが装備されれば、陸上や船舶同士の連携を取ることが出来、戦力が飛躍的に向上する。日露戦争が始まりそうな状況の中、日本海軍にとっては無線装置を装備することは急務であり、大国ロシアを前にして日本の生き残りを掛けたものだった。緒戦でロシアの太平洋艦隊を抑え込んだが、次にアフリカ大陸を回って迫ってくるバルチック艦隊を迎え撃つことになる。その日本海海戦で無線機を艦載した成果が試された。対馬沖で哨戒していた信濃丸から発せられた単文字暗号が勝敗を決するカギとなったという有名な話に結び付くのだった。

 戦争は避けなければならない。戦争には反対だ。しかし、戦争によって技術が進歩してきたこともあった。技術に善悪があるわけではない。その使い方が重要なのだ。無線についての理論がまだまとめられていなかった時代、機器を改造し、より遠くまで伝播するアンテナの形状を手探りで探っていたという記述などアマチュア無線の在り様と相通じるものがあるように感じた。技術は破壊をもたらすものではなく、人々に幸福をもたらすものであるべきだと思う。NO WAR. NO INVASION.

Нет войны,  Нет вторжения       

没有战争。 没有入侵