XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

蕨野行

かやの実

新型インフルエンザが流行期に入ったとのことで、駅でもマスクをした人が多くなった。ほとんどの人が軽い症状で済むようだが、体調によって、既往症によっては重篤になることもあるようだ。相手が見えないだけに、どのように感染を予防したらよいのか不安である。聞くところによると、免疫力を高めるためには十分な睡眠と、身体を温めることが有効だという。科学的な根拠はわからないが、十分な休養と身体に負担をかけないようにすることは大事なことなのだと思う。
うがい、手洗いは習慣になってきた。機会があるごとに行っているが、感染への恐れは拭いきれない。何か頭痛がするような、発熱が始まったような不安定な気分である。私の周りではすでに一割程の人が感染し、回復している。石田衣良の「ブルータワー」のように感染への恐怖が日常化してしまうのだろうか。


「日本の原風景を考える会」という長い名前の団体が製作した「蕨野行」という映画を見た。舞台は山形県朝日村辺りのようだが、独特の言葉が印象的で、最初は何をいているのかよくわからなかった。慣れてくると装飾の少ない文語調の言葉と、主人公の老婆とその息子の嫁との間も掛け合いのナレーションとで、内容がわかるようになってくる。
 山間部の村が舞台だが、緒方拳が主演していた「楢山節考」と同様な姨捨が題材の話だ。生産性が低く、多くの人々を養うことのできない村では、口減らしをしなくては村が成り立たない。そこでこの村ではある年齢になると、山の上にある「蕨野」に老人たちが移り住むことが決められている。
 老人たちは毎日、そこから村に下りてきて農作業の手伝いをし、食物をもらう。蕨野では生産活動をすることは許されず、下の村での手伝いをすることだけが糊口を養う術になる。老人にとって山を下り、また山に帰る毎日は体力を急速に奪い、消耗する行為である。しかし、村での仕事があり、食料をもらえるうちはまだよい。季節が移ろい、秋から冬になると農作業も減り、村の寄り合いで「仕事じまい」が決められる。村に下りてきても仕事がなくなるのだ。すなわち、村人からもらっていた食料がもらえなくなる。
 老人たちは自分たちが暮らす「蕨野」の山の中だけで、食料を手に入れなくてはならなくなる。木の実を拾い、草の根を掘り、食べられそうなものを探し回る。動物の殺生は忌むべきものと考えられていたが、その禁も破らずにはいられない。村に下りることもきついことだが、山の中を歩き回ることも辛いことである。
 次第次第に体力が衰え、老人たちは一人一人とその数を減らしていく。自らの運命を淡々と受け入れ、村に残してきた子どもや孫たちのことを案じながら静かに目を閉じていく。
 蕨野の小屋が雪に閉ざされ、一歩も外に出られなくなると、秋に集めた木の葉とわらに中に身を横たえ、静かに旅立ちを待つことになる。生きていることの厳しさをじっと耐えながら。

 ものが溢れ、飽食の時代、想像することすら難しい状況である。人が生き残っていくために作り出されてきた社会システム。私たちが今の時代に生まれてきたのも、先人たちのこのようなぎりぎりの「生」があったからこそ、命のつながりが保たれてきたのだと思う。
 「日本の原風景を考える会」についてはどのような会なのかを知る由もないが、この映画を通して感じたものには重いものがある。原風景をしっかりと見させてもらった思いである。