XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

本の値段

shig552006-06-10

週末、久しぶりの青空が見られた。もう半袖で一日を過ごせる気候になった。爽やかな風を感じながら散歩を楽しんだ。

古本を売る店が増えている。読み終わった本は書棚に眠っているだけで、改めて読み返すことはほとんどない。我が家の書棚にもたくさんの本が眠っているが、処理をしようとすると愛着を感じるのでなかなか手放せない。雑誌などは適当な期間で必要なページだけスクラップして再生資源に回してきたが、文庫や新書、単行本は再生資源に出すのが忍びなく、そのままになっている。
どの家でも事情は同じなのだろう。そのような読み終わった本を引き取ってくれる店が出来ている。部屋を片付けることが目的なので、引き取ってくれ、活用してくれるのはうれしいことである。しかし、実際に持ち込んでみて驚いた。ほとんど量り売り状態なのである。中身がどういう本であるか、内容は関係ないのだ。すべて一緒くたに扱われている。

学生の頃、絶版になった本を探して神田を何日も歩き回ったことがある。専門書は元々出版数が少なく、見つけることが難しい。今のようなネットの検索などなかったので、脚で探すしかなかった。苦労の末探し当てたのだが、外箱は付いているものの、日に焼けていかにも年代物という状態であった。でも、その内容が大事なのでむさぼり読んだものである。そのときの価格は定価よりも高かったような気がする。

今日、散歩の途中で立ち寄った古本のチェーン店は「本日、単行本、すべて500円」と張り紙が出され、たくさんの人でにぎわっていた。これはこれはと、勇んで本を見て回ったが、食指を動かされる本には出会えなかった。本とは相性が大事である。自分が読みたいと思う本でなければいくらたくさんの本を並べられても買う気にはならない。この500円均一の商売もどのくらい売り上げが伸びているのか疑問なところである。

恐竜のしっぽというたとえがあったが、恐竜の頭のようにベストセラーになる本はごく一部なのだろう。ほとんどがしっぽのように少ししか流通せず、在庫になっていることが多いのだと思う。本の値段がその中身と関係なく扱われているという現実に驚いたが、多くの人にとって関心のない内容であるとき、それは中身がないのと同じ扱いになってしまうと言うことなのだ。もし、この均一の値段の本が検索可能な状態になったら、その価値は中身によって測られるようになるはずである。結局のところ、検索可能にするために情報として入力すること、また、そのメンテナンスが障碍になっている。たまたま自分の欲しい本がその均一料金の中に見つかったら、すごくうれしくなる。また、宝探しに行くのも楽しみである。