XRQ技研業務日誌

ものづくりを楽しんでいます。日々の暮らしの中に面白そうなものを探しながら

台風24号

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   列島を縦断するように通過した台風24号は、当地では大雨というよりも強風が猛威を振るった。10月1日夜半には強い風が雨戸を絶え間なく叩き、吹き荒れる風の音に恐怖を感じるほどだった。ただただ家の中で台風の過ぎ去るのを待つほかなく、外の様子を見る術もない。3時ころになって風の音も少し収まってきたが、そのまま朝を待った。
 明るくなり、家の周りを確認したが、たくさんの木の葉の欠片や引きちぎられたポスター、木片などが散らばっていた。わが家では幸い大きな被害は無かったが、それでも7~8cmの幹の月桂樹の木が根元から折れ、植木鉢がいくつか破損していた。鉢植えの草木はさまざまな方向の風に煽られたようで、みな倒されている。アンテナ線のリードが切れ、垂れさがっており、玄関前の置いていた陶器のこびとの置物が真っ二つになっていた。
 ニュースでは各地で大きな被害が出ているようで、交通機関への影響や停電が起きているという。海水温の上昇などの影響による荒々しい天候がまだまだ続きそうである。
 香りのよい葉の月桂樹ではあったが、根元から折れてしまったのであきらめるしかない。小さく切って処分することにする。荒れ果ててしまった草花や樹木の枝を切ったり、家の周りの小さく砕けた木々の葉や木切れ、紙切れの清掃をしたりするのに2日かかってしまった。こびとの置物は処分するのに忍び難く、修復を試みる。接着剤で張り合わせ、組み上げるが一部足りないところがある。穴の開いた状態ではあるが、ほぼ以前の姿に戻すことができた。

 度重なる災害で、備えを進めているが、いつも「想定外」なことが起こる。そもそも災害は日常と異なることが起き、被害が出ることである。日常の範囲を超えることから非日常が生ずる。備えは想像力であり、応用力であろう。思いもよらないことが起きても、日常を取り戻すべく前に進むことである。
 日本列島は災害列島と呼ばれたこともある。いくつものプレートがぶつかり合うところであり、大海原と大陸に挟まれたところである。私達の先人は幾多の自然災害の中を創意工夫で生き延びてきた。このところの度重なる自然災害によって心を砕かれそうになっているが、先人たちのことを思うとき、この程度では打ちのめされないという勇気が湧いてくる。

 我が家の被害がほとんどなかったからそんな綺麗ごとが言えると言われそうだが、割れてしまったこびとの置物を修復し、その笑顔を見ていると、自然災害に対しての気持ちが奮い立ってくるのである。

アボカド

 今ではサラダを始めさまざまな料理に使われているアボカドだが、私の子供のころには見かけることがなかった。日本では果物の中でバナナ、パイナップルに次いで第3位の輸入量になるという。どこのスーパーに行っても濃い茶色やほとんど黒い果皮をしたものが売られていて、食べごろを示す色付きのシールが貼られている。
 日本で売られているものはほとんどがハス種というグアテマラ系の品種で果皮が厚く、栽培が容易で多産、輸送しやすいものだという。世界には1000種以上の品種があり中には1kgを超える大きな実をならせるものもあるという。ハス種は手ごろな大きさの実をならせ、果皮の色の変化で食べごろもわかりやすいので多く流通しているようだ。
 元々メキシコ、中央アメリカが原産で低温に弱く、熱帯、亜熱帯で生育する植物なのだそうだが、日本でも発芽させることができるという話を耳にした。水栽培の要領で果実を食べた後の種子を尖った方を上にして3分の一ほど水に浸けておくと発根するという。試しにやってみたところ、数個試した中でいくつかが発根し、発芽したものがあった。調べてみると、果実が流通過程で冷蔵庫で冷蔵された場合、発根・発芽しない場合があるという。発芽するものに出合うためには、いろいろな店から購入し、いくつも試してみる必要があるようだ。
 出てきた芽は細い枝となって伸びていき、葉を開かせるまでになったので鉢植えにした。低温には弱いということなので、室内でも冬を越すことができるか心配であるが、観葉植物として楽しみたい。

 

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 毎日の食卓にはさまざまな野菜、果物、肉、魚などが並ぶ。食べ物として見ているのだが、アボカドが発芽したようにこれらは生き物であり、それぞれの生育がある。そして、その命をいただいて人は自らの命を紡いでいる。当たり前のことではあるが、つい忘れがちなことである。フード・ロスなどが話題になっている。モッタイナイという日本語も世界に広まってきた。生かされて生きているということを大事にしていきたい。

残り物には・・・

shig552018-08-03

 6月中に梅雨が明け、猛暑と台風の襲来・・と、これまでの夏とは異なる季節の変化の影響か、体調が優れないままに時が過ぎていった。例年なら、7月にはブルーベリー狩りに行くのだが、やっと8月になって出掛けた。住居の近隣のブルーベリー園はもうほとんどが閉園になっている。すでに時季を過ぎてしまっているのではという不安を抱きながら高速道を走った。
 ここ数年訪れている赤城山麓のブルーベリー園である。いつもの駐車場には夏草が鬱そうと生えている。とりあえず車を入れ、農園へと向かう。のぼり旗が見あたらない。受付にも人の気配がない。ブルーベリーの木々は草の中に埋もれそうである。やはり、観光ブルーベリー園はもう閉園されてしまったようだ。近くの木には取り残しのブルーベリーが美味しそうな色で実っている。つい、一つ摘んで口に入れるとすごい甘さである。なんとかつみ取りができないかと、園主に電話を入れると、畑まで出てきてくれた。頼み込み、ブルーベリー狩りをさせてもらえることになった。
 園主の話では、今年はブルーベリーの生育が早く、例年なら8月上旬まで開園できるのだが、今年は7月で閉園してしまったのだという。しかし、草をかき分け畑に入ってみると、木には色の良いブルーベリーが残っている。普通は房のようにかたまった実の中から熟した実を選びながら、一つ一つ摘み取るのだが、そのかたまり全部が十分に熟しているので、手を触れるとバラバラと実が落ちてくるほどである。それを受けるように籠を下に置き、ブルーベリーのかたまりをバラバラと落としていく。粒の大きさはあまり大きくはないが、甘さは十分である。30分ほどで2kg程が入る籠がいっぱいになる。
 そろそろ終わりにしようかとしていると、1本の木が目に入った。まだ熟し切れていない薄紫の実が混じり、大粒の実がそこここに付いている若い木である。晩生のため、今になってやっと盛りになった木なのであろう。籠に山盛りになるほどブルーベリーを摘むことができた。
 観光農園としては営業していず、依頼があるとたまに摘み取りをしていただけの畑のため、十分に熟した実が残っていたようである。色が濃い。実全体がブルーベリーの色である。それに甘い。酸っぱさがほとんど感じられない。ちょうど、腐貴ワインに使われるブドウのようなのだろうか。おいしいブルーベリーを入手できた。
 日差しは強いのだが、帰りがけに立ち寄った覚満淵ではたくさんのトンボを見かけた。高原にはもう秋がそこまで来ているようである。

「状況」

Askrepiosの杖

 先日、ある署で救急活動訓練効果確認を見学する機会があった。この署では2台の救急車を運用しており、3部編成なので、6つの隊が日頃の訓練成果を展示した。
 想定は、認知症の弟と自宅で生活する80歳代の男性が食事中にものが喉に詰まり、たまたま訪れていた介護ヘルパーからの通報というものであった。
 「状況始め」という合図でそれぞれが動き出した。この状況という言葉は自衛隊などでも使われているが、想定された状況の中で各隊員が情報を収集し、それぞれの判断で目的に向かって行動することを指すようである。
 119番通報で指令室からポンプ車と救急車が連携するPA連携での対応が指令された。ポンプ車隊と救急隊はそれぞれの場所から出場準備に入り、現場の確認、そこまでのルートの危険・配慮個所の確認、走行時の注意などを口々に呼称しながら出動する。救急車内からは直接通報者に電話をし、状況把握と共に応急手当の方法が指示される。
 ポンプ隊が先着し、状況の確認と同時に要救助者への対応が始まる。要救助者が呼吸停止に至っている様子から、室内の家具などを移動し場所を確保、CPR(胸骨圧迫蘇生法)を始めると共に、口腔内からの異物除去を試みる。室内にいる弟さんやヘルパーさんへの声掛けも忘れない。ポンプ隊がCPRを実施しているうちに救急隊が到着すると、情報共有とともに、本部と連携し、救急医からの気管挿管の承認を得て、応急措置を進めていく。ポンプ隊4名、救急隊3名の隊員が、隊長の指揮のもと、それぞれの状況判断で命を救う活動を進めていく。
 救命救急士の背負った機材から酸素を供給し、CPRを続けながら要救助者をストレッチャーに載せ、車内収容。搬送先の選定を確認し、家に残る弟さんへ行き先を伝えて救急車が出発したところで、「状況終了」となった。

 要救助者を乗せるストレッチャーを室内に運び込み、その動線を確保し、ストレチャー搬出時、隊員が靴を履きやすいように通路の左右に並べる。認知症のある弟さんを一人残さないために関係機関と連絡を取りケアマネージャに来てもらう手配をする。要救助者の様子を記録し、病院の医師への引き渡しの準備をする。事故の様子を知っている通報者であるヘルパーさんに病院までの付き添いを依頼する。要救助者の搬出を終える時、忘れ物がないことを声を掛け合って確認する。などなど、隊員が自分自身で状況を確認し行動する姿が見られた。
 6つの隊の展示を見ると、同じ想定なので同じような活動なのだが、細部を見ると異なっている場面がたくさんあった。それが「状況」なのだと思う。想定内ですべてが進むわけではなく、さまざまなアクシデントがあり、各隊の状況も異なるのだ。
 要救助者の命を救うという目的に向けて、一人ではできないことを隊として連携して達成するのが使命なのだ。そのための訓練が、こうした「状況」という中で行なわれているのだと思った。
 隊員が、心肺停止の状況にある要救助者に対して「大丈夫ですよ。頑張ってくださいね。すぐ病院へお連れしますからね」と必死に呼びかけていた声が、まだ私の耳に残っている。

医療の向こう?

shig552018-06-15

このところ腕の痛みに悩まされている。関節の痛みではない。筋肉痛である。それも、刺すような痛みではなく重い痛み。動かすことができないほどの激しさではないので、普段の生活で動作を制限されてはいない。しかし、常に重い痛みがあり、気分が晴れない。特に、寝る時になると痛みを強く感じるため、寝返りもできず、眠れない。仕方なく鎮痛剤を服用して寝るのだが、ほぼ2時間おきに目が覚めてしまい、痛みを和らげるという経皮鎮痛消炎剤を塗って眠るようにしている。
 あまりこの症状が続くので、近所の外科医院に行った。すると、このような症状を扱うのは整形外科であると他の医院を紹介された。その紹介された医院へ行ってみると、中に入りきれず、入り口に列を作っている人々の多さに驚かされる。診察を待っているのは皆、高齢の人たちなのである。そこに並ぶことに、どうしても心理的抵抗があり、診察を受けず帰宅してしまった。
 然りとて、痛みが治まった訳ではない。仕方なく内科で世話になっている病院で話をし、そこの整形外科で診察を受けた。問診をし、レントゲンを何枚も撮り、結果として「五十肩でしょう。筋肉を柔らかくする薬剤を注入しますので、その効果が1週間位ありますから、その間に肩を動かしてみてください」と筋肉注射をし、鎮痛剤と経皮鎮痛消炎剤を1ヶ月分処方された。確かに左右の腕で可動域が異なり、痛みのある腕は狭い範囲でしか動かすことができなくなっていた。関節部分を動かし、筋肉を和らげることで痛みが取れるとの見立てであった。
 1週間、医師の助言の通り動かすようにしていたが、腕の痛みは変わらない。処方された鎮痛剤は確かに効果があり、痛みを和らげるのだが、眠くなる成分が入っているようで朦朧としてしまい、昼間は使えない。そのため、日中は市販の鎮痛薬を使って凌いでいたが、気分は晴れない。
 この痛みの原因はなんなのだろう。治療はできないのだろうか。整形外科の見立てである五十肩とはなんなのだろう。いろいろ調べてみると、そのような病名はなく、加齢に伴う痛みの俗称であるようだ。加齢が原因であるならば医療の範疇を越えたものになってしまう。鎮痛剤による緩和ケアしか無い状況なのか。自分自身が加齢による肉体的変化の新たな領域に入ってしまったと言うことなのだろうか。終末期という文字が頭に浮かぶが、まだまだという気持ちがある。この悩ましい痛みから抜け出せることを願って、チャレンジは続く・・・。

Scrap and Build

かつての光が丘清掃工場

 テレビ番組で、山口県の萩がどうして世界遺産になったのかということが取り上げられていた。城下町である萩の町の区割りが昔のままに保存されているのが、その主な理由とのこと。さまざまな要因が重なって、上級武士の住んでいた町の姿が残されているのだそうだ。特に、当時の居住区が高台であり、中央部の残されていた低地はあまり利用されていなかったが、明治以降の近代化の過程で、その低地に行政機関などが作られることで高台にあった町の区画が壊されることなく残っているのだという。
 通常、新しいものを作るには、それまであったものを取り壊し、新たなものを作るのが通例である。限られた土地を活かすにはそうせざるを得ない。前のものを残しておきたくても、余裕がないのが現状である。
 光が丘にあった清掃工場は、米軍家族の居住地であったグラントハイツが返還され、この地域の再開発が始まった当初に作られたものである。街自体を作る大規模な開発で、高層住宅や商業施設、交通機関や行政施設、公園や災害対応の貯水池など様々なものが作られた。その一環として整備された清掃工場である。
 それは遠くからも見える、ランドマークともいえる真っ白な高い煙突を持ち、その先端には、よくオオタカが留まっていて獲物をねらっていた。このオオタカは隣接する光が丘公園のバードサンクチュアリに営巣している個体のようである。
 そんな街になじんでいた清掃工場であるが、大都市のごみ処理を担う施設としてさらに機能を高めなくてはならず、老朽化してきたことなどから建て替えられることになったという。致し方ないスクラップ アンド ビルドである。
 その解体が進んでいる。すでに高い煙突は見えなくたった。煙突の先端から徐々に輪切りにされ、内側を通じて排出されていったようである。外から見ていると煙突がだんだんに短くなっていくのが見られた。清掃工場は、たくさんの人が憩う公園や商業施設に隣接しているので解体による影響が周囲に及ばないよう工夫した工法が取られたようである。清掃工場の建物全体もシート状の構造物で覆われていて、多少、内部で行なわれている工事の音は聞こえてくるが、粉じんなどは出てこない。
 このような密閉された状態での工事なので、もし内部で火災などの災害が発生したとき、どう対処するかという訓練も行ったと光が丘消防署の方から聞いた。さまざまな人々がかかわって取り壊しが進んでいる。
 青空に輝いていた煙突がなくなってしまったのは寂しいが、新たなものを作るためのスクラップである。まだまだ難しい工事は続いていくと思うが、都市需要に対応した清掃工場としてどのようなものに生まれ変わってくるのかを楽しみにしたい。

20th Anniversary

A1C 20th Anniversary

 私はアマチュア無線の同好の志が集うA1Club(エーワンクラブ)に参加させていただいている。A1とは無線で電波形式の「CW電信」を表わす記号である。電波法上でA1(主搬送波を振幅変調し、変調用可聴周波数を使用しない電信)と定義されている。そして 電信は、聴覚受信を目的とする電信A1Aと、機械による自動電信受信電信A1Bと分類されている。もちろん、私のやっているのは手送り、耳で聞き分けるA1Aだ。
 このクラブは入会条件が「CWが好き」「モールス通信に興味がある」それだけという、いたって緩い集まりで、電信を楽しんでいる。1998年に発足メンバー11人によって始められ、私がメンバーに加えていただいたのが2003年、今年は創立20周年と言うことになる。
 設立趣意書に中に「CWはその効率の悪さ故、ついにプロの世界ではその使命を終え消え去ろうとしています。 効率第一、能率優先、無駄の切り捨て、などとストレスのたまる昨今、せめて趣味の世界でCWを肴に楽しんでいたいと思いませんか。」という文言がある。特殊な例を除いて、電信が商業利用される場面がなくなり、アマチュアの資格試験でもモールス符号の送受信という実技がなくなった。人が自身の頭を使って行うデジタル通信としてのモールス符号が、このままでは記録としてしか存在しなくなってしまいそうだ。モールス符号は実際に通信に使ってこそ意味があると思う。技能として残していくためには、アマチュアがその楽しさ、おもしろさを若い人達に伝えていくことが大事だと思うのだ。
 モールスの習得にはいくつもの壁があり、時間のかかるものだ。しかし、アマチュア無線を始めて、高度な技術を使いこなし、通信できるのが当たり前のような状況を経験すると、この原始的とも言える通信方法のおもしろさに回帰する人が多いようだ。短点と長点の組み合わせという単純な音の断続の中に、思いの外多くの情報を込めることができる。ある意味ではモールス符号を聞いていると、それを打つ人のその時の心の状態までわかるように感じる。だから、一度モールス符号に入り込むと、その魅力に取り込まれてしまうのだろう。
 モールス符号で通信することのメリットとして、機材がシンプルであることが挙げられるだろう。送信機は電波の断続だけで良く、符号を作り出すのも電鍵やパドルなので自作することも可能だ。さまざまな工夫をすることも、ものづくりも楽しめる。
 A1クラブは現在3000名を越えるメンバーを擁するようになった。その中には海外局との交信、QRP(小電力)通信、移動運用、和文による交信、などさまざまな楽しみ方をしている人達がいる。みなさん、「電信が好き」という人達だ。20周年の今年、さまざまなイベントで「電信」を盛り上げていきたいと思う。
 写真は20周年の記念品として作成されたマグネットと手作りパドルである。